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よく、聞く話で、個人的にも良く考える話しで
 
どちらがどうとかこうとか言う話しでもないのですが。
 
 
『保育に机上の理論が必要か否か・・・。』
 
『机上の理論の実践が必要か否か・・・。』
 
 
必要ないとは思わないが、通用はしないというか

通用し辛いと思っている.

ひとりひとりの個性を重んじる事に

重きを置いているのであればなお・・・

 
理論上は同じ「一人の子ども」として、扱われたとしても
 
それはあくまで理論の上の事であって、ひとつの線の上に子どもを置くことは
 
事実上不可能であり、現場の人間としては出来ないし、やりたくもない事も事実。
 
 
10人いれば10人の個性がある子ども達を
 
むりやり、理論のなかに当てはめることはできるのだろうが
 
世の中で一番ナンセンスなことで、一歩間違えてしまえば危険極まりない
 
理論を説く人は、よく「確立を高める」と言う言葉を口にするが
 
現場の先生が一人一人の子ども達の状態などに即して確立を高めるのと
 
机上で議論されたものの確立を高めるのではわけが違う。
 
 
本来、確率論なんて人に当てはめるべきものでは絶対にない。
 
人間は確立で行動が予測できたり、気持ちが理解できるほど

単純な生き物では絶対にない・・・はずだし、そうでないから

この仕事にやりがいがあり、この仕事を選んで・・・。
 

 
では、なぜ先生方は指導案なるものを
 
机上の理論として作成し、文字として残して実践するのか?
 
それは、クラスの一人一人の子ども達をイメージできるから
 
その子のことを考えながらかけるから意味がある
 
子ども達ひとりひとりの家庭環境・性格・心の状態・成長の過程まで
 
理解しているからこそ書くことが出来るものが指導案であり
 
だからこそ、残すことに意味がある。
 
どちらかと言えば机上の理論でなく、日記や成長の記録に近い
 
もちろん、予想されるこどもたちの動きなども現実に即したものとなるが
 
こちらも、確率論になってしまう・・・。
 
 
集団を「個を集めたもの」として捉えているのであれば意味がある
 
しかし、「集団の中に個がある」と捉えているのであれば意味が無いわけではないが
 
所詮、仮定と想像を脱しない理論となってしまうような気がするのです。
 
もちろん「個を集めたもの」として議論するのであれば、一人一人の深い理解が
 
大前提なのだとおもうのですが・・・。
 
 
何でもね。子ども達に寄り添うことからね・・・。
 
 
まぁ、「保育は会議室じゃない、現場で起きているんだ!!」とも
 
いかないですけどね・・・。

 





本当にね・・・。

 

解散!!



 

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